それは、イエスの誕生日である8月3日の少し前のこと。
夏休みに入っているとはいえ、高校二年生の夏休みというのは意外と忙しい。
なんだかんだと講座が入ったりと、一年後に控える受験に備え始めているものなのだ。
で、あるわけなので。

「イエスくんの誕生日、ちゃんと祝うのは4日の土曜日でいいかな?」

なんて言う風に上目遣いに首を傾げられたのはついさっきのこと。
別に誕生日なんて祝ってもらうようなものではないと思っているイエスである。
彼女の問いに対して返した答えは、ぶっきらぼう極まりない、

「別にどうでもいい」

なんてもので。
そっか、とちょっとしょんぼりされてしまったことを思い出すと、少しばかりの罪悪感に視線が泳ぎそうになる。

(……だってわからねぇもんは仕方ねぇだろ)

溜息混じりに、心の中だけでぼやく。
誕生日を祝う意味がわからないのだ。
誕生日を祝われて、嬉しいと思う気持ちが理解できない。
だから、誕生日当日に祝われようが、後日改めて祝われようが、その違いがわからない。
わからないから、拘らないし、わからないからどうでもいい。

「…………」

ソファに転がったまま、薄らと目を開けて彼女の様子をうかがう。
先程までは、なんやかんやとイエスの隣で話していたのだが……。
いつの間にか寝入ってしまったイエスの元を離れて、犬と遊んでいるようだった。

(……ずっと側にいりゃいいのに)

彼女の膝は、イエスにとって非常にお気に入りの枕なのだ。
ほどよく柔らかく、暖かい。
もしかしたらイエスが目を覚ましたのは、そんな彼女が枕役から離脱して犬に構いだしてしまったからなのかもしれない。

「……ねえ、わんちゃん。
イエスくんはどんな風にお祝いしたら喜んでくれるかな?」
「きゅーん……」

困惑したように犬が鼻を鳴らして返事を返す。
犬のすべらかな毛並を撫でながら、彼女はイエスの誕生日をどう祝うべきかで頭を悩ませているらしい。

「普通はちょっと豪華なご飯と、バースデーケーキって感じだと思うんだけど……。
イエスくん、食べることにあんまり興味ないもんなあ」
「わんわん」
「そうなるとどうしたらいいのかなー。
外に出かけるのもあんまり好きじゃないもんねー?」
「わんわん」
「うーん……。
プレゼントだけ用意するっていうのも味気ないよね……」
「わんわん」

(適当なこと言ってやがんな)

犬の返事は適当極まりない。
が、それでも相槌にはなっているのか、彼女は悩ましげに犬へと語りかけ続けている。

「ねえ、わんちゃんは何か良いアイディアないかな?」
「わんわん」

(犬が何言ってもわかんねぇ癖に)

わしゃわしゃと犬を撫でてやりながら、彼女は独り言のように会話をやめようとはしない。
寝てる自分を放置して、犬を構うその態度が気に入らなかったもので。
イエスはそっと音を立てないように彼女の背後へと迫ると、しゃがんで犬を撫でる彼女の背へとのしかかってやった。

「わ……!?
イエスくん!?」
「枕が勝手に移動してんじゃねぇ」

背中から包み込むように抱きしめて、のしのしと体重をかける。

「ちょ、イエスくん重い!」
「重くしてるからな」
「潰れちゃうよっ」
「潰してんだ」

一生懸命イエスの体重を支えようとしているのか、胸に当たる彼女の背がふるふると震えているのがわかった。

(なかなか頑張るな……)

ぐり、と彼女の華奢な肩に顎を乗せる。
くすぐったいのか、ひゃ、と小さく声があがった。
つい、と視線を動かすと、目の前にはほんのりと朱色に染まりつつある彼女の白い耳朶がある。
誘われるよう、ぁーんとその耳を食んで。

「お前の手作りなら、全部喰う」
「……っ!!」

囁いた瞬間、腕の中に閉じ込めた少女はいろいろなものに負けてぺちゃんと崩れてしまった。




★☆★




そして、8月4日の土曜日。
イエスの誕生日の次の日、彼女は大きな買い物袋を下げてVANQUISHに現れた。
それとは別に持っていた小さな手提げから引っ張り出したのは、可愛らしいエプロンだ。
きりっとした面持ちでそれを装着した彼女は、買い物袋を片手にVANQUISHの厨房へと足を踏み入れた。
イエスや彼女がいない折にはしっかりバーとして機能しているらしきこの店には、しっかりとした厨房が備わっている。
もしかしたら客に簡単な料理を出したりもしているのかもしれない。

「これからわたしは、イエスくんの誕生日を祝うための御馳走を作ります」
「おう」
「なので、イエスくんはその辺で待っていてください」
「……御馳走ねえ」

彼女の気合十分、といった言葉にイエスはニヤリと口元を笑みに歪めて買い物袋の中を覗き込む。
いかにもわかりやすい材料が、その中には揃っている。

「ハンバーグとケーキ?」
「……う、うん」

後は付け合せとスープだろうか。
材料からメニューを推測された少女は、少し恥ずかしそうに目を逸らす。
いかにも、といった定番のメニューだ。
王道だ。

「と、とりあえず作るから、イエスくんはほら!
ソファでわんちゃんと遊んでて?
すぐ作っちゃうから」
「…………」

ぐいぐい、と彼女はイエスの背に手をあてて、厨房から押し出そうとする。
それに対して、イエスは軽く重心を後ろに倒してみる。
特に踏ん張る、といったわけではなかったが、たったそれだけのことで厨房の外に押し出されかけていたイエスの歩みがぴたりと止まる。
体格差の勝利である。

「……イエスくんー」

降参します、というような声音で名前を呼ばれた。
それにふふんと勝ち誇った笑みを浮かべて、イエスは首だけで彼女を振り返った。

「手伝ってやるよ」
「ええ!? イエスくんの誕生日の御馳走作るのに、イエスくんが手伝っちゃうの?」
「別にいいじゃねーか。祝われる俺がやらせろっつってんだ」
「それはそうなんだけど……」
「いいからほら、何からやりゃいいんだ」
「えっと……」

彼女はしばらく、困ったようにうつむいて視線を揺らす。

(俺に手伝われるとそんなに困るのかよ)

差し伸べた手を無視されてしまったような気がして、チクリと心の片隅が痛む。
それが、彼女の純粋に自分を祝いたいという気持ちから来たものだということはわかっている。
子供っぽい駄々とわかっていても、それでも。
――…と。

「……笑わないでね?」

そんな言葉と一緒に、彼女がごそりとエプロンの入ってた袋から取り出したのは、
一冊の料理本だった。
タイトルはずばり――…、『大好きなカレシのためのバースデーレシピ』

「や、やっぱりほら、美味しいものを食べさせてあげたいって思ったから……、そのっ。
本とかレシピとかって基本だし……!
……うう」

言葉じりが次第にもごもごと力を失っていく。
うつむいた顔は、真っ赤だ。
本を頼りにイエスの誕生日を祝うための料理を作ろうとしていたことを隠すために、彼女はイエスを厨房から追い出したかったらしい。

「……くくッ」
「わ、笑わないでよー!」

ぺちん。
抗議のように、軽く拳で胸を小突かれた。

(……頭から食っちまいてえ)

そんな凶悪な感情は、一体どこから湧いてきたものなのか。
愛しくて、独り占めしたくて、童話に出てくる狼のよう、
少女を己の内に閉じ込めてしまいたくなる。
そっと伸ばした手で、ふざけたタイトルのレシピ本に触れると、
開き癖がついているのかすぐにハンバーグのページが開いた。
今日までに一体何度彼女はそのページを開き、
イメージトレーニングを重ねてきたのだろう。
もしかしたら、もうすでに家で何度か実際に作ってみたのかもしれない。

「……本当に、手伝ってくれるの?」
「しつけぇ」
「もう。わたしがイエスくんのために料理してあげようと思ってたのに」

ぷ、と小さく唇を尖らせて呟いて。
それでも彼女は、やっぱり全てを許すように、楽しげに笑ってくれた。
そして、いざ始まるクッキングタイム。




☆★☆




「……っう、……ぐす……」
「俺以外に泣かされてんじゃねぇ」
「だったらイエスくん代わりに玉ねぎのみじん切りやってくれる?」
「だが断る」
「ひどい……。
 ……ぐす、……うっ………ひっく」
「…………」
「……ぐすん」
「……貸せ」




☆★☆




「イエスくん、ハンバーグどれくらい食べる?
食べたい大きさで作ってあげるよ」
「でっけぇの」
「え? イエスくん、大きくていいの?」
「ン」
「じゃあ、フライパンと同じぐらいの大きさで作っちゃおうっと!」
「……それちゃんと火ィ通ってンだろうな」
「た、たぶん」
「…………」




☆★☆




「いい匂いがしてきたねー。
このスープ、いつもわたしの誕生日にお母さんが作ってくれるのと同じなんだ。
わたしのお気に入りなの。
イエスくんも気に入ってくれるといいな」
「……おう」




☆★☆




「ケーキは、イエスくんが食べられるようにビターチョコを使ったガトーショコラになる予定だよ!」
「……予定、なんだな」
「れ、練習ではうまく行ったんだけど」
「焦がすなよ」
「……がんばる!」




☆★☆




どたばたしつつも、何とか二人がかりで準備したバースデーディナー。
いつもの定位置であるソファの前には、大きなハンバーグの乗ったお皿が二枚。
付け合せはホウレンソウのソテーと、炒めたコーン。
そしてコーンと玉葱の入ったマッシュルームのクリームスープ。
デザートに作ったガトーショコラは冷蔵庫で冷えている。
重厚なバーには不似合いな、暖かで家庭的な匂いがふわふわと周囲には漂っていた。
そんな中、

「……うーん。
イエスくんのハンバーグ、やっぱり大きくしすぎて割れちゃった」

彼女は、イエスの隣で何やらしょんぼりとしたようにつぶやく。
どうやらイエスのために作ったハンバーグがレシピ本にある写真どおりの完璧な形でないことが不満であるらしい。
ふすんと息を吐いて、肩を落とす。

「ごめんね、不格好なハンバーグになっちゃって。
味の方は大丈夫だといいんだけど」
「……ンなのソースかけりゃわかんねーだろ」

ひび割れた大きなハンバーグの表面には、美味しそうな匂いを放つデミグラスソースがかかっている。
食欲をそそる、良い匂いだ。

「なあ」
「なあに?」
「食っていいか」
「あ、うん。食べようか」

二人、視線を交わして。

「いただきますっ」
「…………」

イエスは無言ながら、隣の彼女にならって小さく手を合わせる。
これも、彼女と一緒に食事をするようになってから出来た癖だ。
目の前には暖かな香りに包まれが美味しそうなハンバーグ。
フライパン一杯に敷き詰めて焼いたせいで、ところどころ割れてしまっているが、イエスがリクエストした通りの大きさだ。
そして隣では、どことなくドキドキした顔で、同じようにフォークを握る彼女が座っている。
イエスの誕生日を祝うために、イエスのために料理を作ってくれた彼女。
暖かな食事。
暖かな体温。
いつだって彼女は、イエスにぬくもりをくれる。

「……誕生日も、悪くねぇな」
「ふふ」

油断すると、自分でもよくわからない感情にニヤけてしまいそうな口元を懸命に引き締めて、イエスは小さくつぶやく。
隣で、全てお見通しだというように、彼女が笑う。

「食べよう?」
「ああ」

二人フォークを伸ばし、ハンバーグを切り分け、口に運んで。
幸せの味を、噛みしめる。


誕生日おめでとう、イエス様!