それは、本格的な夏が始まったある日のこと。
週末、いつものように二人で穏やかなデートを楽しんだ帰り道、ふと彼女がうかがうような視線を哲へと向けた。

「えっと……、哲くん」
「お? なんだい?」

そろそろ彼女の家の前に差し掛かる。
今日のデートも、もう終わっちまうんだなあ、としみじみ噛みしめていた哲は、名前を呼ばれて視線を隣に歩く彼女へと向ける。
そして彼女と目があって、ごくごく当たり前のように嬉しいなあ、と思った。
友人らよりは、低い位置。
それでいて、弟たちよりは高い。
そんな、彼女だけの角度。
付き合い始めの頃は、ちょっとずれた位置に視線をやって、それから彼女を探すように視線をあげたり、下げたりと調整が必要だった。
それが今ではこうして、当たり前のように彼女と目が合う。
彼女が隣にいることが自分にとっての当たり前に馴染んできたことを、嬉しく思うのだ。

「あの……、今度のお休みって何か予定あるかな」
「今度の休みかい?
 土曜はいつも通り部活に顔出して……、日曜は空いてるぜ」
「ううん、土日じゃなくって、月曜日なんだけど」
「月曜?」

今度の休み、という言葉と、月曜日、との単語が重ならなくて哲は首を傾げてしまう。
月曜は平日のはずだ。

「あ、哲くんもしかして気づいてなかった?
 来週の月曜日ってね、祝日なんだよ。
 海の日」
「……あ」

そういえば、そんな話をどこかで聞いたような気がする。
来週は三連休だと、クラスの誰かが騒いでいたような。

「そっか、そうなんだな。
 すっかり忘れちまってたぜ。
 それで、その月曜日がどうかしたかい?
 俺は今んとこ特に予定はねぇが……」
「えっとその……。
 哲くんのところみたいに、本格的じゃないんだけど、
 小さなお祭りが近くであるみたいなんだ。
 それに一緒に行けないかな、って」
「お祭りかい?
 そりゃあ血が騒ぐねえ」

言葉通り、じっとしていられないというように哲は小さく肩を揺らす。
御輿を担いで走り回るあの熱気は、夏にしか味わえない。
そんな哲の様子に、彼女は慌ててぱたぱたと手を振った。

「小さいお祭りだから、御神輿とかはないみたいなんだ……!
 でも夜店や屋台はあって、花火大会もあるからどうかなって……!
 ……駄目かな?」

哲が日頃から、祭の醍醐味といったらやっぱり御輿だろうと力説してるからだろうか。
彼女は、申し訳なさそうに今回のお祭りには御輿がないのだと言う。

(……はは、可愛いなあ)

愛しさに、目を細める。
そうやって、哲が好きなものを覚えていてくれて、心を砕いてくれることが嬉しくてたまらない。

「駄目なわけがねぇよ。
 あんたが誘ってくれたってだけでも俺ぁ嬉しいんだ。
 それに祭の楽しみは御輿だけじゃねぇしな!
 屋台の焼きそば、イカ焼き、お好み焼きに焼き鳥……」
「ふふ、哲くんてば食べ物ばっかりだね。
 でもお祭りの屋台の食べ物ってなんだか特別な感じがするよね。
 普通に買って食べるより美味しいっていうか」
「おうよ。
 喰いモンじゃねぇなら……、ああ、射的やヨーヨー釣り、金魚掬いなんかもいいねえ」
「哲くん、そういうの得意そうだね」
「まかせろい!
 あんたの欲しいもん、なんだって俺が取ってやるよ」
「楽しみにしてるね」
「ああ。
 それじゃあ来週の月曜は、あんたとお祭りだな」
「うん!
 ありがとう、哲くん!
 あ、それでね」
「ん?」

なんでもないように、彼女が言葉を付け足す。
少し、はにかむように笑いながら。

「その……、浴衣をね、着てきて欲しいんだけど」
「…………」

思わず、哲はフリーズした。
浴衣。浴衣。浴衣。
わざわざ浴衣を着てきて欲しい、なんていうのは、きっと、もしかして。

「あ、別に浴衣じゃなくてもいいんだけど……。
 その、わたしもね、せっかくのお祭りだから浴衣着ようと思ってて。
 それで、お揃いに出来たら嬉しいなって」
「…………」
「て、哲くん?」

固まってしまった哲に向かって、彼女がおそるおそるというように声をかける。
何か変なことでも言ってしまっただろうか、とわたわたしている彼女の手を、ぎゅっと握りしめて。

「あんた、浴衣着てくれんのかい?」
「う、うん」
「ぃよっしゃ……!!」

ガッツポーズ。
思えば、まだTYBが開催中だった頃からずっと、哲は彼女の浴衣姿が見てみたいと力説していたのである。
いつもの洋服だって、もちろん可愛い。
自慢の恋人だ。
だが……、下町育ちで和風好みで祭好きな哲としては、是非そんな彼女の浴衣姿が見てみたいと思っていたのだ。
いつぞや二人で温泉旅館に出かけた折には、室内着としての浴衣姿は見ることが出来た。
着慣れていないせいか、少しぎこちなくて、それでいてくつろいだ風なのがとても風情があって可愛かった。
が、それだけでは満足できないのである。
同じ浴衣でも、外で着るためのお洒落浴衣姿も見てみたい。
間違いなく、似合うはずだ。
絶対に、可愛い。
見る前から断言できる。

「そんなガッツポーズで喜んで貰えるようなことじゃないと思うんだけど……」

少し困ったような彼女だけれど、その口元はほっとしたような笑みに彩られている。
哲が浴衣デートを喜んでくれたことに対する安心と。
そこまでの期待に応えられるかな、といったような不安といったところだろうか。
そんな彼女が可愛くて可愛くてたまらなかったもので。
つい、

「て、哲くん!?」
「あんたみたいな可愛い彼女と一緒に夏祭に出かけられるなんて、俺ぁ三国一の幸せもんだ」

なんて言いながら、彼女をぎゅっと抱きしめてしまっていた。
諸星哲。
一つ年下の彼女が、可愛くて可愛くてたまらないお年頃である。





☆★☆





そして、やってきた海の日当日。
哲は彼女の家の前まで迎えにやってきていた。
本日は彼女に言われた通り、哲も浴衣姿だ。
深い緑地に、黒にも見まごう濃緑が縞に入った落ち着きのあるものだ。
帯は、黒。
哲の明るい髪色に、その暗さが逆に映える。
帯の後ろには、くいとうちわを差してあるのがなんとも哲らしい。
いつものようにチャイムを押して、彼女が出てくるのを待つ。
デートコースが夏祭ということもあって、今日はいつもより遅い待ち合わせだ。
沈みかけた陽の差しかける西日の茜色がまぶしくて、哲は目を眇める。
と、そこでドアが開く音がした。

「ごめんね、哲くん。
 待たせちゃった」

慣れない草履に手間取っているのか、足元は未だごそごそとしながら彼女が言う。
ドアの開いた隙間、家の中から顔を出した彼女に――……、哲はぽかんと口を開けたまま見蕩れてしまった。
紺色の落ち着いた地色に、ところどころ鮮やかなオレンジが花を咲かせている。
帯もまた、同じオレンジ。
紺と橙のコントラストに目が眩みそうだ。

「…………」
「…………」

彼女もまた、哲の浴衣姿に大きな双眸をぱちくりと見張ったまま動きを止めている。
二人して、互いの姿を見つめ合うというなんだか間抜けな図だ。
先に我に返ったのは、彼女の方だった。

「哲くん、さすがだね。
 浴衣姿がすっごく様になってるよ。
 格好いい」
「そ、そうかい……?
 あんたは……、その、なんていうか……。
 だああああっ、こういうときに自分のオツムが恨めしくなるぜ。
 俺が今どれだけあんたに見惚れてんのか、あんたがどれだけ綺麗なのか、どうやったら伝えられるのかちっともわかりゃしねえ」
「……っ、そ、それで十分だよっ!」

美辞麗句を並べるよりも、哲の正直な言葉は彼女にまっすぐに届いたらしい。
哲の言葉に、彼女は薄らと頬を赤く染めて恥ずかしそうに目を伏せる。
普段はただただ可愛い、という言葉が先立つ彼女だが、今日は見慣れぬ浴衣姿ということもあってかなんだか非常に艶っぽい。
哲までドギマギとしてきてしまう。
そんなのを誤魔化すように、哲はあたふたと言葉を継いだ。

「草履、大丈夫かい?
 もしかして鼻緒がキツいんじゃねぇのか?」
「うん……。
 買ったばっかりだから、それでだと思う。
 でも大丈夫だよ。
 歩いているうちに慣れると思うから」
「そいつはいけねぇよ。
 擦れて痛くなっちまう。
 貸してみな」

哲はそっと彼女の足元へと屈みこんだ。

「俺の肩に捕まっててくれよ。
 で、足はこっちだ」
「え、ええええ!?」

彼女の華奢な小さな足を捕まえて、哲は己の腿の上へと導く。
慌てたように彼女は逃げようとするが、慣れない浴衣姿で片足を取られてる状況で逃げられるわけもない。

「いいからおとなしくしてなって。
 よいしょっと」

新品の草履の鼻緒に手をかけ、くいくい、と軽く引っ張ること数度。

「これでどうだい?」

腿の上に乗せた彼女の素足に、そっと草履を履かせてやる。

「……あ、さっきより全然楽になったよ。
 ありがとう、哲くん」
「それじゃあ反対側も貸してみな」
「え……」

もぞもぞと恥ずかしそうにしていた彼女だったが、哲がもう一度促してやれば、やがて諦めたように片足を持ち上げる。
恭しく捧げ持つように彼女の足に手をかけ、草履を引き抜く。
素足を腿の上に乗せてやり、先ほどと同じように鼻緒に手をかけ、軽く引く。
これで、少しは楽になるだろう。
再び持ち上げた素足に草履を履かせてやりながら、ふと見えた小さな貝殻めいた足の爪に、ふと。

「あんたは足の爪まで可愛いんだなあ」

なんてしみじみと呟いてしまった。
彼女がその後真っ赤になってしばらく黙り込んでしまったのは、言うまでもない。





☆★☆





二人並んで手を繋ぎ、祭会場へと足を踏み入れる。
こじんまりとした小さな夏祭だが、近所の人々が顔を出しているのだろう。
夕涼みめいた浴衣姿の男女が、楽しげに声を交わしながら夕闇の中を歩いている。
けたけたと笑い声をあげながら走りまわる子供達も、賑やかだ。

「こう、御輿を担いで暴れる祭も好きだがよ。
 俺ぁこういう風情のある祭も好きだなあ」
「そう? 哲くんがそう言ってくれてよかった」

陽はすでに沈んでいる。
名残のように、遠い空の縁だけが薄赤く染まり、空の大部分は暗い紺色だ。
そんな暗がりの中、あちこちで灯り始める電球。
そして屋台を彩る提灯。
ジュージューと焼き物をする音が、周囲から響き始めた。
それに伴い、なんとも香ばしい香りが二人の鼻先を掠めていく。

「……なあ」
「なに?」
「まずは腹ごしらえからしねぇかい?」
「ふふっ、哲くんらしいね。
 それじゃあね……」

ごそごそ。
彼女が手にしていた巾着袋の中をあさる。
そこから、ずるり、と何やら長い紙が出てきた。

「はい、哲くん」
「お? 何だい、こりゃあ」

差し出されたそれを、受け取る。
長い紙切れに見えたそれは、何枚か綴りのチケットのようだった。
その一枚一枚に、焼き鳥、焼きイカ、焼きそば、焼きもろこし、お好み焼き、といつか哲が食べたいと口にした屋台のメニューがずらりと並んでいる。

「食べ物だけじゃなくてね、出店でも使えるから今日はたっぷり遊ぼうね!」
「あんた……、わざわざ準備しててくれたのかい?
 悪いな、後でちゃんと出すからよ」
「ううん、いいよ」
「そういうわけにはいかねぇって」

彼女がいろいろと予め手配していてくれたことは嬉しい。
だが、それに甘えてしまうのは男としてどうだろうかと思ってしまう哲なのである。
そんな哲の反応は彼女にとっては想定済みだったようだ。
彼女は、とっておきの悪戯を白状するように、にっこりと笑った。
まるで彼女が纏う浴衣のような。
夕闇に咲く、鮮やかな花のような笑顔。

「哲くんへの、誕生日プレゼント第一弾です」
「……へ?」

そんな笑顔に見惚れてしまったせいか、彼女の言葉が突拍子がなかったせいか、えへんと胸を張って言われた彼女の言葉に、哲は間の抜けた声を返した。

「哲くんの誕生日、7月18日でしょう?」
「あ、ああ」

そういえば、誕生日が近いんだった、と最近思ったことを思い出す。
思って、その後、また忘れていたのだ。

「今日はまだ16日だけど……。
 ちょうどお祭りがあるって聞いたから、いいかなって思って。
 そんなわけで、このお祭り堪能チケットはわたしからのプレゼント第一弾だよ」
「第一弾って……」
「第二弾は、当日に渡そうかな、って。  ケーキもその時に食べようね。  あ、18日もしかして忙しかったりする?」
「や、平気だ」
「それなら良かった」

ほっとしたように笑う彼女とは対照的に、哲はどこかぼんやり顔だ。
思ってもいなかったサプライズプレゼントを前に、頭のどこかが麻痺してしまったような感。
人間は嬉しすぎるとヒューズが飛ぶらしい。

「…………」
「哲くん?」

もしかして気に入らなかった? と少しだけ彼女の声に不安が滲む。
気に入らないなんてことがあり得るはずがないのに。
新品の草履から考えて、きっと彼女は今日のために浴衣一式を揃えてくれたのだろう。
紺色に咲くオレンジの花は、きっと哲のイメージカラーに合わせてくれた色だ。
そして、夏祭りのことを調べて、あらかじめチケットを購入して。
そこまでしてくれる可愛い彼女に、どんな不満があるだろう。

「あんたが俺の彼女で、俺は本当に幸せだ。
 ……ありがとうな」

しみじみと、そんな言葉が零れた。
もはや、口癖じみたその言葉。

「なあ」
「なあに?」
「あんたのことを、抱きしめてもいいかい?」

一応聞いたのは、人前でイチャつくことを恥ずかしがる彼女を思いやってのことだ。
まあ、断られたとしても押し切る気でいるのだが。

「え、ええと……っ」

恥ずかしそうに、色白の頬が朱に染まる。
彼女は、ちらりと周囲を見やって。
小さく、頷いた。
周囲は祭りの喧騒に満ちている。
煌々と明るいのは屋台の周辺だけで、その他の場所はぼんやりと夕闇の中に沈んでしまっている。
だからきっと、そんなお祭り会場の端っこで、幸せなカップルがイチャついていたとしても……、きっと誰も気にしたりはしないだろう。

「大好きだぜ、俺のお姫様」
「……うん、わたしも。
 哲くんに、喜んでもらえて良かったよ」

夏祭りは、まだ始まったばかり。
屋台に夜店、回るべき場所も見るべきものも、たくさん残っている。
が、今のところ。
この二人にはお互いしか見えていないようだった。


お誕生日おめでとう、哲ちゃん!